「見果てぬ夢」とは
シリーズ「裸木」の第4号は、『見果てぬ夢から』というタイトルにした。冊子が最近出来上がったことについては、このブログでも何度か触れているので、あらためて繰り返したいわけではない。勿論のこと冊子の宣伝をしたいわけでもない。今回は、タイトルから思い付いた夢の話を気儘に書いてみたい。
これで4冊の冊子が出来上がったわけだが、こうしたものをまとめる際に気になるのはタイトルである。あれこれ悩み考えることになるが、それはそれで愉しみでもある。第1号から第4号までのタイトルを並べてみると、『記憶のかけらを抱いて』、『「働くこと」の周縁から』、『カンナの咲く夏に』そして今回の『見果てぬ夢から』となる。
第2号の『「働くこと」の周縁から』だけが何となく素っ気なく、いささか無味乾燥な感じである。読む意欲が沸きにくいと言えばいいであろうか(笑)。ちょっと面白そうな調査報告書を3本ならべただけの中身なので、こうなるのもやむを得ない。
かなり気の早い話であるが、来年の冊子のタイトルは『逍遙の日々から』にしようかなどとぼんやり考えている。そんな時間も愉しい。逍遙とは、気儘にぶらぶら歩くという意味だが、そんな言葉を使うと坪内逍遙を連想させて、如何にも古臭いと思われるかもしれない(笑)。私などは、名前だけは知っていても作品は何一つ読んだことがない。彼は逍遙遊人とも号したらしいので、今の自分にぴったりである(笑)。
今回のタイトルに決める前には、「夢の途中から」も候補として考えていた。これもいいなあと思ったが、最後は「見果てぬ夢から」に落ちついた。来生たかおや薬師丸ひろ子の歌に「夢の途中」があることを思いだしたこともあったかもしれないし(笑)、まだ夢を追いかけているという語感がちょっと気になったのかもしれない。「見果てぬ夢から」も似たようなものかもしれないのだが…。いずれにしても今回は夢と言う言葉を使おうと思っていたのである。
「夢」を辞書で調べると次のような解説が出てくる。① 睡眠時に生じる、ある程度の一貫性をもった幻覚体験。多くの場合、視覚像で現れ、聴覚・触覚を伴うこともある。非現実的な内容である場合が多いが、夢を見ている当人には切迫した現実性を帯びている。 「 -を見る」 「 -からさめる」、② 将来実現させたいと心の中に思い描いている願い。 「少年らしい-を抱いている」 「 -は果てしなく広がる」、③ 現実を離れた甘美な状態。 「新婚の-の日々を送る」 「太平の-をむさぼる」、④ 現実とかけはなれた考え。実現の可能性のない空想。 「宇宙旅行は-ではなくなった」 「 -のような話」、⑤ 心の迷い。迷夢。 「見果てぬ-を追う」、⑥ はかない物事。不確かな事。 「 -と消え去る」 「 -の世」。随分といろいろあるので驚いた。
近年やたら頻繁に登場するのは、②の「将来実現させたいと心の中に思い描いている願い」の意で用いられる夢である。夢というものは、追いかけたり、実現したり、達成したり、叶えたり、描いたりするものであるらしい。しかしながら、辺り構わぬ前向きな姿勢というものに、年寄りの私はいささか鬱陶しく思い、嫌気がさし、それどころか胡散臭ささえ感ずるのである。「いま」「ここ」に「そのまま」で「ある」あるいは「いる」ことにもっと目を向ける必要があるんじゃないのか、それが幸せをたぐり寄せるうえで大事なんじゃないのかと思ったりもする。
笑えたのは、⑤にあげられている「心の迷い。迷夢。」である。その用例として、「見果てぬ-を追う」があげられていたからである。私としては、④あたりかと思っていたのではあるが…。しかしながら、言われてみれば、「見果てぬ夢」とは確かに心の迷いを表しているのかもしれない。何時までも考えが纏まらないからである。「迷夢」とは言い得て妙である(笑)。
本来の意味である①の夢について言えば、最近私はほとんど夢を見ない。ごく平凡で現実的な人間だし、単純な暮らしを続けているので、夢には縁遠いのかもしれない。昔はごくたまに夢を見ることがあったが、夢を見たという記憶が残ってはいても、それがどんな夢だったのかがいつも思い出せない。夢を見ている途中にトイレに起きて、その続きを見ようと思って寝たら続きを見たという体験もしたが、それがどんな夢だったのかまったく記憶にない。私の夢はきちんとした輪郭を描くことはなく、色も付いていない。
夢と言えば、『夢』(1990年)という8話からなるオムニバス形式の映画がある。黒澤明の作品である。昔見たが、私にはよく分からなかったので、どう紹介したものか迷う。しかしよくよく考えてみれば、分からなければ分からないままにしておけばいいのであって、無理に分かろうとしてわざわざ論評などする必要もない。世の中には物事を分かりやすく断ずる人がいて、そんな人物の信奉者が多過ぎるような気もするのである。
分からないということでもう一つ思い出されるのは、夏目漱石の「夢十夜」である。短い作品なので、今回読み返してみた。10話とも「こんな夢を見た」で始まるのかと思っていたが、書き出しがそうなっているのは、10話中4話だけだった。
どれもよく分からないのだが、気になったのは第六夜の運慶の話である。護国寺の山門で仁王を刻んでいる運慶の評判を聞きつけて、見に出掛ける。集まっている見物人は皆明治の人間である。その腕前に感心して独り言を呟くと、見物人の一人が、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない」と言うのである。
はたしてそうなら誰にでもできるはずだと思い、さっそく家へ帰って、勢いよく彫りはじめてみたが、掘り当てることが出来ない。「積んである薪を片っ端から彫ってみたが、どれもこれも仁王を蔵しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った」という話である。
この話は「ほぼ解った」で終わっているのだが、読んでいる私にはどうもよく分からない(笑)。ただ、創造という行為は、埋まっているものを掘り出すということなのかと思い、そこだけは私も妙に気になった。そしてまた、掘り出す仕事に熱中するような人は、もしかしたらいろんな夢を見るのかもしれないなどとも思った。
今の世の中に氾濫している夢、すなわち先の②の「 将来実現させたいと心の中に思い描いている願い」というものは、ただただ外の世界に追い求めるものではなく、内の世界から掘り出すものなのだと知ることも大事なのことなのかもしれない。夢には縁遠いのに「迷夢」に耽っている店主の、晩夏のつぶやきである。