「敬徳書院」余滴

 これで、私が「敬徳書院」の扁額を入手した経緯に関わる話については、あらかた書き終えたのであるが、補足的にあれこれのこぼれ話のようなものを書き留めておきたい。余話とか余録とか余滴とでも言うべきものである。残りかすにもっとも相応しい表現は余滴であろうか。

 普通こうしたものは短いのが常であるが、思い付くままに胸の内を吐き出すのが好きな私のことだから、長くなる可能性は十分にある(笑)。まずは、「佐野文庫」の新潟大学付属図書館への移管が、寄贈だったのかそれとも購入だったのかというところから始めてみよう。

 私が2018年の7月に長岡に出向いたことは既に記したが、同じこの年の9月には新潟大学の付属図書館を訪ねた。専修大学の社会科学研究所が実施した調査に加えてもらって、秋田、山形、新潟と巡ってきたのだが、その最終地である新潟で途中下車させてもらって、図書館に顔を出してみた。目的は「佐野文庫」の現物を見せてもらうためである。その顛末については、シリーズ「裸木」の第3号となる『カンナの咲く夏に』で紹介しておいた。

 その際、「佐野文庫」に関わる資料を綴じ込んだファイルも見せてもらった。そして面白そうなところをコピーまでしてもらった。図書館の職員の方は、遠くから縁者が現れたので丁寧に対応してくれたのであろう。そのファイルに、1960年10月4日付けの『新潟日報』のかなり大きな記事があった。見出しには、「祖父伝来の蔵書をお役に」、「佐野文庫を新大へ寄贈」などとある。

 記事の中身もなかなかに興味深い。面白そうなところだけかいつまんで紹介してみる。「どんなに貧乏しても書物だけは売りたくない」というほどのブックマニアである佐野泰蔵氏が、祖父伝来の1万7千冊に上るぼう大な蔵書を、県の社会教育課の宮栄二氏を通じてこのほど新潟大学に寄贈した。

 「病気のため蔵書の保存も行き届かないので、むざむざ虫に食わせるよりは少しでも地方文化の振興に役立たせたい」という寄贈者の申し出に、大学では「これだけの蔵書をただもらうわけにはいかぬから…」とこれを買い入れるための予算措置を文部省に要求している」とあった。

 また、「寄贈者の泰蔵氏はいまはベッドに寝たっきり」だが、「江戸時代の学者長沢伴雄(ながさわ・ともお)の一句 われ死なば売りて黄金にかへななむ 親のものとて虫にはますな」を示しながら、「雑本ばかりで大した本でもないが、バラ売りすればかなりの金額になる」ことは知っている。

 しかしそれでは「せっかくの祖父の蔵書を県内外に分散させることになるわけで、私としてはしのびない。かといって蔵書を虫に食わせても申しわけない話で、文化財をあずかるものの責任として新大に寄贈したまでです」と語ったとのことである。叔父もなかなか格好好い科白を吐いている(笑)。

 この記事を読むと、どんな状況であったのかがおおよそわかってくる。また、佐野泰蔵の面影もあれこれと偲ばれる。私の姉は一度見舞いに泰蔵叔父を訪ねて新潟に出掛けたことがあるが、私は一度も会うことはなかった。写真で見ただけである。高校の国語の教師として教鞭を執り、先の新聞記事からもわかるように文学にも造詣が深かったようなので、会ってみたかった。

 新聞の記事とともに、ファイルには『新潟大学25年史』に収録された附属図書館の歴史に関する記録もあった。それを見ると次のような記述がある。「文化系図書の充実を図るため、文庫又は文書等を購入した」として、その最初に「佐野文庫」をあげ、1960年12月26日に50万円で購入したと書かれている。

 「佐野文庫」の目録の作成には大分長い期間を要したようで、「目録の刊行には、とくに文部省情報図書館課の援助を得て」、1974に刊行したとある。蔵書の「寄贈」から14年の年月が経っている。私も図書館に顔を出した際に、その時作成された目録を見せてもらったが、たいへんな作業だっただろうことがよくわかった。目録がなければ、「佐野文庫」も宝の持ち腐れとなる。この目録は、現在図書館のホームページから閲覧できるようになっている。

 次に触れておきたいのは、「佐野文庫」の寄贈者であった佐野泰蔵の次男である佐野眞人さんを、甲府に訪ねた時の話である。泰蔵には二人の子があり、長男が敬文さん(敬文さんの敬は「敬徳書院」から取られている)であり、次男が眞人さんである。敬文さんは既に2010年に亡くなっている。

 私は一度眞人さんと会って佐野の家のことをあれこれ聞いてみたかった。入手した「敬徳書院」の扁額について、もしかしたら眞人さんが何か知っているかもしれないと思ったのは、言うまでもない。さらに付け加えておけば、敬文さんの死後眞人さんと少しばかり遣り取りしたが、そんな遣り取りを通じて眞人さんという人物に興味を持ったこともある。

 思い立った時に顔を合わせなければ、会うこともなくなるような気もしたので、意を決して2019年の10月に甲府にまで出向いてみた。ところが、ちょうどこの時に運悪く大型の台風に遭遇して、帰途にてんやわんやの事態に見舞われた。その笑うに笑えない(しかし笑いたくなる-笑)顛末については、既にブログに投稿済みである。

 眞人さんの話でたいへん興味深かったのは、泰蔵の妻であり眞人さんの母親である京子叔母が、もう既に没落して何の実体もなくなっているにも拘わらず、佐野「家」という旧家の格式とプライドだけは持っている(ように見えていたのだろう)係累の人々に、はっきりと違和感を抱いていたという話である。

 母親思いの眞人さんも、同じような感覚を持っておられるようだった。京子叔母が生きておられたなら、「敬徳書院」の扁額などを追い回してきた今の私なども、似たような人間に「勘違い」されたかもしれない(笑)。私のような「品」も「格」もない人間には、旧家の格式とプライドなど、持とうにも持てないのではあるが…。

 地主の家を継いだ当主の夫が、難病で長期の療養を余儀なくされていたし、戦後その家は完全に没落したので、京子叔母はいつまでも佐野家などにしがみついている気にはなれなかったのであろう。夫が亡くなった後も、実家の支援はあったにせよ苦労は絶えなかったに違いない。

 出雲崎から新潟市内に転居するにあたって、眞人さんの話では、金目の家財道具類はほとんど処分したとのことであった。生活が窮迫していたことも勿論あったであろうが、そうすることによって、佐野家の幻影から「自由」になりたかったのかもしれない。

 家財道具の処分に際しては、骨董商が家に訪ねてきてあれこれ眺めながら値踏みすることになる。佐野家と付き合いが深かった長岡の骨董商の木内さんという方を通じて、ほとんど買い取られたようであった。没落地主ということで足許を見られていたはずだから、もしかしたら買い叩かれるようなこともあったかもしれない。

 子供だった眞人さんは、新潟大学の教員が貴重本を漁りに家に押しかけてきたことを覚えていた。そうした無礼な振る舞いに反発する母親との遣り取りの場面を、たまたま覗いたことがあったらしいが、母親から「子供はこんなところを見てはいけない」と叱られたそうである。「盛」から「衰」へと向かう没落地主の悲哀が漂った、何とももの悲しい一齣ではある。

 昔私の実家の母(つまり泰蔵の姉)が亡くなってから、結婚後苦労を重ねてきた母の若かりし頃の思い出を辿ろうとして、私の姉が、新潟市内で家庭科の教員として働いていた京子叔母を訪ねたことがあったという。姉はただそれだけの気持であったろうと思われるが、叔母からは、「家にはもう何もありませんよ」と告げられ、「後ろを振り向いていないで、自分の道を歩みなさい」と諭されたとのことだった。

 叔母のその言葉に込められていたのは、もう佐野家などというのは過去の幻としてあるだけで、すでに跡形もなく消滅しているとの思いだったのであろう。当時まだ40そこそこで、亡くなった母が恋しかった姉には、叔母の思いが十分には推察できなかったかもしれないのだが…。北前船の栄華の跡をたどりながら私がいつも感じてきたのは、叔母と似たような思い、すなわち幻影をいつまでも追い求めることの虚しさである。

 亡くなった母は、ある時私の弟に対して「罰(ばち)が当たったんだね」と言ったらしい。しばらく前に弟からそんな話を聞いた。昔あまりにも裕福な暮らしをしていたことへの罰だと言いたかったのであろう。私にはそんなことを言ったことはなかったのだが…。何時ももの静かだった母のことだから、きっと寂しそうな顔をしてぽつりと語ったに違いない。

 母は、ところどころで自分の胸の内を明かすことはあったが、裕福だった実家の話など何一つと言っていいほど語らなかった。そして、老後のゆとりや愉しみを味わうこともなく1979年に64歳で亡くなった。この年になってあらためて母の人生を辿り直してみると、切なさだけがこみ上げてくる。そんな切なさなど、年寄りのたんなる感傷に過ぎないのではあろうが…。