「忙」のなかの「閑」
定年後に、現在自分が居住している団地の管理組合の理事長を、たまたまやることになった。その仕事にまつわるあれこれの話は、これまでにもブログに時折綴ってきたから、わかっている人にはわかっていることだろう。その仕事がやたらに忙しく、定年後にこんな事態が待ち構えているとは思いも寄らなかった。かなりうんざりするような人間関係も生じたので、仕事上のうんざりと人間関係上のうんざりが重なり合って、そのうんざりの度合いたるやかなりのものとなった(笑)。
そんな状況のなか、夜はお笑いとブログで気分転換を図ってきたが、では昼はどうだろう。「忙中閑あり」(忙中であって房中ではない-笑)と言うように、「忙」の中にも「閑」はあるし、「閑」がないと「忙」は務まらないということもある。以下、「忙」の合間の「閑」に何をしていたのかを記してみたい。
私は、専修大学の教員になる前に(財)労働科学研究所に15年ほど勤務した。そして、この研究所の出版部から、これまでに4冊の著書を出してもらっている。刊行年の順に紹介してみると、『企業社会と労働組合』(1989年)、『企業社会と労働者』(1990年)、『労働者のライフサイクルと企業社会』(1994年)、それに『現代日本の労働問題』(1999年)である。前の3冊は、中身は別にして体裁だけは専門書の形を取っているが、最後のものは、大学で担当した「労働経済論」の講義用のテキストとして作成したものである。安価にしないと学生に買ってもらえないので、だいぶ簡易な製本で作られている。
退職後、「忙」の合間にあれこれと片付けものをしていたら、その後別のバージョンのテキストを作成していたことを思い出した。先の『現代日本の労働問題』の中身をさらに膨らませたものである。骨格はほぼ似たようなものだったので、いったんは処分してしまおうかと考えたのであるが、途中で少し惜しい気にもなり残すことにした。しかし、このテキストはB5の判型だったので、他の4冊とは違っていた。そこで、この際と思って縮小コピーして他の著作と同じ判型に揃え、タイトルを『現代労働問題講義』と名付けて、上製本のような表紙を付けてみた。ついでに、簡易製本であった『現代日本の労働問題』の表紙も、同じようなものに変えてみた。
このようにすると、5冊の著作が同じ形式のものとなり、一見シリーズ物のように見えなくもなかったので、この機会に勝手に著作集Ⅰ~Ⅴと銘打って、表紙と背表紙、それにカバーにも同じ形式のラベルを貼り付けてみた、このようにして書斎の本棚に並べてみると、本が揃っているので心なしか立派に感じられただけではなく、著者の私自身までもが何やら立派な人物のようにも思えてきた(笑)。当然ながら、錯視にもとづくまったくの錯覚である。
さらには、この5冊の著作集には収録されていない論文を、雑誌論文と他の著書に収録された論文とに分け、それぞれに市販の立派な表紙(「製本工房」という名称で売られている)を付けてまとめてみた。雑誌論文の方は、B5の白表紙にしてタイトルを「私の労働問題散策」としてみた。これは全7冊となった。もう一つの著書論文の方は、A5の黒表紙にしてタイトルを「高橋祐吉論文集」とした。こちらは全6冊となった。どれもこれも「閑」がもたらした自己満足の極みではある(笑)。こうした手作りに近い製本作業は、あまり頭を使わないので単純な作業には違いないが、綺麗に仕上げるにはあれこれと工夫がいる。きちんと整ったものが好きな私には、そのこと自体がなかなか面白い。ストレスの解消にはうってつけの作業だった。
私は昔から工作の類いが好きだった。一番熱中したのは、小学生の頃から中学校に入りたての時期まで続いた模型飛行機作りである。いったい何機制作したのであろうか。ずいぶんとお金を注ぎ込んだような気もする。しかも、完璧に作らないと気が済まない性癖だったので、ちょっとでも失敗すると祖母にお金をせびって新しいものを買いに店に走ったらしい。当時端で見ていた姉がそう言うのだから、間違いなかろう。こうした性癖は今でも続いている。私が買いに走ったその店は、セキヤといって当時は福島市内の早稲町にあり、私の記憶にある店主は細面の紳士のような印象だった。今は繁華街の方に移転していたが、それでも店はまだやっていた。しばらく前に帰福した折に店を覗いてみたが、今では模型飛行機作りが廃れてしまったこともあるのか、店の片隅にごく僅かに残っていただけだった。
作った模型飛行機は、県庁前の広場や学校のグランドや河原で飛ばした。短大の教員だった父は、夏休みに入ると私や弟を毎朝のように散歩に連れ出したが、その折に飛ばしたこともある。母が作ってくれた握り飯を持って、父と一緒に魚すくいやバッタとりにもよく出かけた。懐かしい夏の思い出である。高校卒業までは昔制作した模型飛行機が2機ほど家に残っていたのを覚えているが、その後私が大学に進学して上京したり、実家が五月町から方木田に転居したことなどもあって、いつの間にかすべて失われてしまった。
模型飛行機に関しては別な思い出もある。小学校の4,5年頃の同級生に広田という障害を持った子がいた。私の上の姉もダウン症だったので、そんな繋がりで母どうしは顔見知りだったようである。その彼が夕飯時に我が家を訪ねてきて、私に模型飛行機の袋を渡して「作ってくれ」と頼んできた。彼は私が模型飛行機作りが得意なことを、知っていたのであろう。私はそれほど面倒なことだとは思わなかったので、気軽に引き受けてやった。縁側でのそんなやりとりを、食卓を囲んでいた両親が優しい眼差しで眺めていたことを、今頃になって急に思い出した。随分と昔の話である。
話が脇道にそれたが、著作集と銘打った5冊の本と、旬報社で出してもらった『現代日本における労働世界の構図』(2013年)、それに専修大学出版局から出してもらった『「企業社会」の形成・成熟・変容』(2018年)を並べて眺めていると、名実ともに研究と教育から足を洗ったという実感が沸いてきた。保存に値しないものはすべて処分し、取っておく価値のありそうなものだけを残した結果、これまでの私自身の研究の軌跡は、すべて整理し尽されたからである。人間が、人生の最後に小さな壺に収まるのと似ているのかもしれない(笑)。著作集と銘打ったそれぞれの著作のはしがきとあとがきを、この機会に改めて読み直してみたが、そこには何とも言いようのない懐かしさが匂っていた。
これから先は、「敬徳書院」の店主として、のんびりとシリーズ「裸木」の制作に向かってみたい。これまでに、創刊号として『記憶のかけらを抱いて』(2017年)を、第2号として『「働くこと」の周縁から』(2018年)を作ったので、今年は第3号ということになる。タイトルは『カンナの咲く夏に』とするつもりである。そのためにはブログに文章を綴らなければならないが、これは気儘に書けばいいので、研究論文を書くような大変さはない。たんなる老後の楽しみに過ぎないからである。こんなふうにして人生の終末に向かうのも悪くはなかろう。少なくとも、私の好みには合っている。
2019年の立春に
私の好きな春の一句
この道しかない春の雪ふる 山頭火