「後期高齢者」考
年金者文化展に出品してすっかり気を良くしたので、勢い余って都筑区や青葉区が主催するこの秋の文化祭や芸術祭にも、この際だからと思い切って出品してみることにした。後期高齢者とは思えぬはしゃぎっぷりである(笑)。もっとも、写真の場合などは、申し込めば誰でも出品できるようだから、取り立ててどうこう言うほどのものでは、勿論ない。その顛末のあれこれについては、文化祭や芸術祭が終わった後にでも紹介してみたいと思っている。
いま「後期高齢者とは思えぬ」などと書いたが、それは、この9月に誕生日を迎えた私は75歳となり、いわゆる後期高齢者となったからである。この名称は後期高齢者医療制度から生まれたものであり、制度的には「前期高齢者」とは65歳から74歳まで、「後期高齢者」とは75歳以上の高齢者をそれぞれ指している。調べてみると、0~14歳は年少人口、15~64歳は生産年齢人口、65歳以上は高齢人口と呼ばれ、老年医学の見地からは、その高齢人口は、65〜74歳の前期高齢者(准高齢者)、75歳以上の後期高齢者、85歳以上の超高齢者に区分されているようである。
もはや後期高齢者であり、そんな年齢になったことを改めて意識するようになったのは、一つは、ブログに投稿した「運転免許証更新始末記」でも触れたように、免許証の更新の際に認知機能検査を受けなければならなくなったからであり、もう一つは、これまでの保険証が「後期高齢者医療被保険者証」に変わったことである。新しい保険証が自宅に郵送されてきた。
そしてさらに三つ目に、この10月から、一定以上の所得のある後期高齢者の医療費の窓口負担割合が、これまでの1割から2割に引き上げられた結果、私は突然2割の負担者とされてしまったことである。たまたま現在長期の病院通いを余儀なくされているので、その影響をもろに受けそうな気配である。それにしても、高齢者の窓口負担割合を一挙に2倍にするとは、やることがあまりにも粗雑で乱暴である。
後期高齢者になると、否が応でも自分の人生の終末を考えるようになる。私はそうしたことをぼんやり夢想するのが、それほど嫌いなわけではないので、縁起でもないとかまだまだ元気なので考えたくない、などと思ったりすることはない。世の中には「終活」なる言葉もあるようで、遺産だ相続だお墓だとあれこれと指図してくれる人も多い。私が関心を持つのは、そんなことではない。そもそも人生の終焉に向かう営みを活動と捉えるような発想に違和感を持っているし、さらには終焉活動を「終活」と呼ぶような何とも安直な姿勢に興味も関心もないからである。
先日知り合いのFさんからメールをもらった。彼は駄洒落に始まるような言葉遊びが大好きで、斯界によく知られた人である(大袈裟かー笑)。そこには、「後期」高齢者を「好機」ととらえたいものだと書かれており、「高貴」は無理でも、「好奇」心ぐらいは欲しいと添えられていた。相変わらず上手い。後期高齢者は何を言っても何をやっても許されるようであれば、まさに「好機」なのだろうが、現実はそうはいかない。こちらの人品が「高貴」とはほど遠いので、「好奇」心の発露が、逆に他人様から「好奇」の眼で見られるようにもなる(笑)。
しかしそれにしても、「後期」を「好機」と捉えるような逆転の発想は素晴らしい。見習いたいものである。鴎外に「じいさんばあさん」という小品があり、そこに次のような一節がある。「二人の生活はいかにも隱居らしい、氣樂な生活である。爺いさんは眼鏡を掛けて本を讀む。細字で日記を附ける。毎日同じ時刻に刀劍に打粉を打つて拭く。體を極めて木刀を揮る。婆あさんは例のまま事の眞似をして、其隙には爺いさんの傍に來て團扇であふぐ。もう時候がそろ/\暑くなる頃だからである。婆あさんが暫くあふぐうちに、爺いさんは讀みさした本を置いて話をし出す。二人はさも樂しさうに話すのである。」
私も上記の「じいさんばあさん」のようにありたいのだが、世の中いろいろあって、そうは簡単には問屋が卸さない。「後期」を「好機」とするためには、縁もゆかりもない「高貴」などは自分の方からかなぐり捨てて、カメラ片手に「好奇」心丸出しでうろつくしかなかろう。ジム通いならぬ病院通いで運動不足を解消しながら、人気のない公園で深まる秋色を探し廻るのが、「カメラ坊主」を自称するじいさんの正しいあり方なのではあるまいか(笑)。
そんなことを考えていた折、子供と小僧から気になる情報を提供してもらった。正確に言えば、子供からはしばらく前に、小僧からはつい最近指摘されたのである。Yahoo!で「高橋祐吉」と打ち込んで検索すると、変な言葉が一杯出てくるとのことだった。二人とも、得体の知れぬ我が家のじいさんが何者かを知りたくて、スマホででも検索したのであろう。子供はともかく、小僧ももうそんなことを試みる年齢になったのである。この私はいつもGoogle でしか検索しないので、指摘されるまでまったく気付かずにいた。他にも気付いた方はおられたのかもしれないが、言い出しにくくて黙っていたのかもしれない。
どんな言葉が登場しているのかと言えば、「人格否定」、「傲慢」、「頑固」、「マイペース=自己中」、「個性を潰す」などである。これらの言葉の前にすべて「高橋祐吉」と付くのだから念が入っている(笑)。検索すると真っ先にこうした否定的な言葉が並ぶので、子供は「誰かに恨まれているのか」などと少し心配そうに尋ねてきた。その時の私としては特に深い関心は抱かなかったので、「はて」と首を捻っただけだったが、もしかしたら、老後の道楽でブログに勝手なことを書き散らしているので、その所為もあるのかもしれない。
こちらはとしては、立派な善人であるなどとは端から思っていないので、後期高齢者になるまで生きてくれば恨みを買うようなことがあったかもしれない。いや、きっとあったことだろう。振り返ってみれば、いくつか思い当たる節もないわけではない。それにしても、私のようなどうでもいい小者を相手にするような暇な人間が、世の中にはいるらしいということが、不思議と言えば不思議である。
それはともかく、落ち着いてよく考えてみると、先のような「人格否定」、「傲慢」、「頑固」、「マイペース=自己中」、「個性を潰す」などの特徴は、後期高齢者となった私の如きじいさんのやりそうなことではある。心が硬直し、言葉が硬直し、態度が硬直し、そして最後に身体が硬直して人生の終焉を迎えるのであろう。「終活」などはほどほどにして死ぬまで柔らかさを保つこと、敢えて言えばそれが私の終焉に向かう構えである。先の批判などは、後期高齢者となった私への心のこもったアドバイスとして、素直に有り難く頂戴すべきものなのかもしれない(笑)。
PHOTO ALBUM「裸木」(2022/10/22)
夕景の煌めき(自宅付近にて)
旧きものの姿(都筑中央公園にて)
その先の光へ(都筑中央公園にて)