「後期」高齢者の「好奇」心とは(四)

 いつものことではあるのだが、私の癖である長話は一向に治る気配がない。持病であり、生活習慣病だからである。「馬鹿は死ななきゃ治らない」と言うが、その類いに違いなかろう。当初この話はつなぎで書くつもりだったので、1回で終える予定であった。しかしながら、好き勝手に面白おかしく書いているうちに2回になった。さすがにこれで終われるだろうと思っていたが、それでも話が終わらない。とうとう4回になってしまった。何としても今回で終わりにする。暇な人間のなせる技なので、どうかヒラにご容赦願いたい。家人は、こういうくだけた話も面白いのではないかなどと、無責任なことを語ってはいたのだが…。

 「好奇」心に名を借りた放言や妄言、雑言(ぞうごん)の続きである。滅多にない「好機」の到来であり、これを逃す手はなかろう。歩きながら(時には自転車に乗ってまで)スマホをいじっている人、あるいはまたやたらにスカートの丈が短い女子高生、あるいはまた喫茶店でとんでもない嬌声を発している母親たちにたまに出くわしたりすると、まことに僭越至極な言い草だとは重々承知しながらも、「馬鹿まるだし」という言葉が頭をよぎってしまう。思うだけで言葉に発するわけでもないから、誰にも迷惑を掛けることはないのだが…。

 昔同名のタイトルの映画を見たことがある。山田洋次監督のこの映画(1964年)はなかなかの力作であった。主演のハナ肇の怪演振りも懐かしい。この私は、こちらの「馬鹿」にはなってみたいと思うし憧れてもいるのだが、平気で傍若無人な振る舞いに及ぶような「バカ」になりたいとは思っていない。もしかしたら、スマホ人間などは「馬鹿」なのではなく「バカ」なのではあるまいか。では「馬鹿」と「バカ」はどう違うのか。両者の違いが気になるところである。

 「馬鹿」は、時代遅れで不器用そして愛嬌のある人物なので、愛すべき存在である。これに対して、「バカ」は流行り物にすぐに飛びついて、あることないこと声高に喋りまくる小器用な人物なので、何とも鬱陶しい存在である。そうした人間は、ネットの世界にうじゃうじゃとたむろしているように見える。私がスマホが嫌いな所以である。この私は、スマホをいじるのは最小限でいいと思っているので、スマホ内のアプリもこの際と思って綺麗さっぱりと断捨離した。どうでもいいものはすべてアンインストールしたのだが、そうしたら何とも清々しい(きよきよしいではなく、すがすがしいと読む-笑)気分になった。

 しばらく前までは、スマホで落語を聞きながら寝ていたこともあったが、スマホを寝室にまで持ち込まない方がいいと言われたのでやめることにした。古典落語はついつい聞き入ってしまうし、創作落語は笑わせようとするあまりなのかやけに騒々しいので、ともに睡眠の妨げになってきたからである。今は、暇な午後にお茶でも飲みながらのんびり聞いている。寝るときに手にするのは漫画である。しばらく前にはHさんの勧めもあって中崎タツヤの『じみへん』を読んでいたが、今は細野不二彦の『ギャラリーフェイク』である。一話一話が短いので、寝るのに丁度いい。年寄りは意固地になりがちなので、落語も漫画も強張った心身をほぐすにはもってこいということか。

 テレビについて言えば、離れてから大分経つのでほとんど見ていない。ごくたまに気が向いたものを眺めるだけである。見るべきものがない、つまらないなどとぼやくこともない。見なければいいだけだからである。東京・オリンピックもそうだったが、パリ・オリンピックはさらに縁遠い話となってしまっている。勿論ながら一切見なかった。いつの間にか始まり、そしていつの間にか終わった。何となく私の人生のようでもある(笑)。

 こんなふうにして、「後期」高齢者の「好奇」心は、自らの変身やら放言やらに向けてあれこれと広がってきている。話を変身に戻せば、最後の仕上げとなるのは、いささか丸みを帯びつつある背筋をピンと伸ばすことであり、しっかりと膨らみ始めた腹をへこますことである。既に失われてしまった頭髪を、今更増やすことは出来ない相談だが(笑)、この二つは努力すれば出来ないことはないのかもしれない。しかしながら、私のような意志薄弱の並の年寄りには、達成するのがなかなか難しい。一朝一夕にはいかないからである。この辺りに関しては、健康オタクでもあり教え魔でもある家人の言うことに、素直に従うしかなかろう。

 今こう書いたのだが、人の言うことに素直に従うことが難しくなるのも、年寄りの特性であり宿痾である。この私は一丁前に頑固者なので、なかなか素直になれない。老いては子に従えとも言うではないか。なのに、老いてまでも家人を従え子を従えようとしている。愚の骨頂の極みであり、「馬鹿まるだし」もいいところである。皆から愛想を尽かされ、既に破綻しかかっている(笑)。たいして拘りのないところは、黙ってどんどん従えばいいのであろう。何の拘りもない年寄りは一緒にいても面白くも何ともないが、あっちこっちに拘りが多過ぎる年寄りも、それはそれで面倒臭いものである。ともになりたくない。

 食べたいものを食べたいだけ食べ、飲みたいものを飲みたいだけ飲んで、楽な姿勢で座りっぱなしでいては、変身など覚束ない。先だって出掛けた先で家人に撮ってもらった写真を見たら、明らかに腹が膨らんでいた。シャツで隠そうにも隠しようがないほどの出具合である。そこで娘に「しのぶれど腹に出にけり我が体型」と書いて送ってやったら、「上手い、座布団一枚!」などと言われた。年寄りは褒められるのにからきし弱い。後半を続けるならば、「いつの間にやと娘問うまで」とでもなろうか。何とも困ったものである。自分の腹の出具合が気になり始めたこともあって、最近他人様の腹の出具合を注意深く観察するようになった。何とも悪趣味ではある。

 先日近くの病院で横浜市の実施するガン検診を受けてきたが、そこでまたまた身長が縮んだことを知った。最盛期(?)からすると5センチも縮んでいる。少しがっかりして、「背は随分縮むもんなんですねえ」などと呟いたら、「皆さんそうおっしゃいますよ」と言って看護師さんが優しく慰めてくれた。皆と同じだと言われると、何だか妙に納得するのは何故だろう。情けない話ではある。結論を言うならば、背が低くなってその分腹が出てきたのである(笑)。これこそ典型的な老化現象と言うべきであり、自然の摂理にかなった変化なのであろう。しかしながら、これは変化ではあっても変身ではない。自分で選び取っているわけではないからである。大事なのは変身の方である。

 4回にも渡って好き勝手なことを書き散らしてきた。4回とはいやはや驚き呆れる。書き終えてみると、すっきりしたと言うよりも内心忸怩たる思いの方が強い。兼好は折節(おりふし)のことに関して、「おぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざ」だと語っているが、私などはただただ言いたい放題の妄言を書き散らしただけなので、心に思っていることを書いたからといってふくれた腹がへこむわけではない。当然である。

 もしかしたら、こんな一文を読まされて気に障った方もおられたかもしれない。「妄言多謝」などという言葉は、こうした時にこそ使うべきものに違いなかろう。調べてみたら、似たような表現で「暴言多罪」などという言葉もあるようだ。私の場合など、もしかしたら「妄言多謝」を通り越して「暴言多罪」に近付いているのかもしれない。何とも困ったものである。罪深き老人の暴言を許していただきたい。

 それもこれもとんでもない暑さの所為である。自分のことを棚に上げて、暑さの所為にしているのも何とも図々しい話ではあるのだが…。最近映画『九十歳。何がめでたい』を見てきたが、その影響などももしかしたらあるのかもしれない。私の場合など、「喜寿?それが何か」とでもなろうか。今日も朝っぱらから蝉の鳴き声が時雨のように響いている。またまた脳みそが溶け出すような暑さになりそうである。こんな暑さのなか、友人のFは踏ん張って懸命にリハビリを続けている。快癒を願うばかりである。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2024/08/23

千鳥ヶ淵三景(1)

 

千鳥ヶ淵三景(2)

 

千鳥ヶ淵三景(3)