「後期」高齢者の「好奇」心とは(二)

 前回のようなことをだらだらと書いているうちに、我が身に生まれたあれこれの変化についても、この際だから紹介してみたくなった。そんな極私的な話に誰も興味を覚えることなどなかろうとは思うが、まあ暑さしのぎの年寄りの戯れ言だと思って読んでいただければ幸いである。暑い時には、暑苦しい話など聞きたくもないし、また暑苦しい文章も読みたくない。書く方も同じである。できればあっさりした素麺のようなものが食べたい。年寄りであれば尚更である。

 話の続きとなるが、サングラスも当然ながら夏の季語である。満田春日(まんだ・はるひ)という俳人の句に、「サングラスして我という闇にゐる」というものがある。これを掛けていると、他人からは別人のように見えているはずなので、我という闇に潜んでいるような気がするのであろう。夏の眩しい光だけではなく、他者との間をも遮断している小道具の如くである。ついでに、サングラスにストラップを付けて首に掛けられるようにしてみた。金属製の立派なストラップもあるようだが、私には安物で十分である。

 どのメガネにも遠近両用のレンズを入れてはいるのだが、はっきり言って手元の文字を見るのにはあまり役に立たない。いちいちメガネを外すして胸のポケットに入れるのが面倒なので、首に掛けられるようにしたのである。こうすると、メガネはどこに行ったのかと探し回ることもない。「忘れ物」ならぬ「忘れ者」の異名を取っているこの私なので、できるだけ捜し物をしなくて済むような状況が望ましいことは言うまでもない。そのうち「私は誰?」などと言って、自分自身さえも忘れるに違いなかろう(笑)。

 麦わら帽子にサングラスの出で立ちとなれば、シャツもまたそうした変身にふさわしいものでなければならないだろう。家人から差し色の赤が入ったものなどはどうかなどと勧められたこともあって、昔と比べればこのところ大分カラフルなものを着るようになった。単色の手軽なポロシャツも悪くはないが、これでは年寄りのトレードマークにはどうもなりにくい。アクセントとなる刺繍が付いているものもあるが、そんなものは小さくて誰も見ない。今の私には、真っ白の開襟シャツや大胆な模様のあるオープンシャツの方がどうも似合うような気がしている。

 気に入ったシャツを店で探すのは面倒なので、だいたいはネットで探す。時には、近くにある古着屋に出向いたりもする。たまにではあるが、いいものが格安で見つかることもある。そんなものを買って着ているうちに、キューバシャツというものがあることを知った。私はアロハシャツを着るような柄ではないので(気弱なので、どうもそこまで大胆にはなりきれない)、今度はこのキューバシャツというものを着てみようかと思っている。裾をパンツの中に入れることを想定した作りではなく、外に出すシャツである。だから裾は直線なのである。それがすっきりしていていい。パンツの中に入れることを想定したシャツを、外に出して着ている人を時折見かけることもあるし、たまに自分もそうすることがあるが、何だかだらしない感じがして、私は余り好んではいない。

 今パンツ、パンツと書いたが、パンツと言っても下着のことではなく、ズボンのことである。時代遅れの人間なのでパンツなどと言われるとハッとするので(笑)、ズボンの方が落ち着く。自分の場合、案外変わらないのはパンツである。高齢者でもチノパンやジーンズなどをはいて若々しさをアピールしている人もいるが、私にはアピールしたいほどの若々しさなどまるでないので、量販店で売っているものを履いている。しばらく前まで、ズボンの裾をダブルにしてオシャレを気取っていたこともあったが、今はシングルである。すっきりしている。サンダル履きで外出する時には、年甲斐もなく短パンを愛用している。自転車に乗っている時にはさほどではないが、電車の中では周りの視線が少しばかり気になる。年寄りの短パンは周りからかなり浮いているように思えるからである。

 履いている靴もすっかり変わった。革靴をまったくと言っていいほど履かなくなった。履き心地のいい布製のシューズ(いわゆるスニーカー)に変えたからである。紺のパンツの時には黒っぽいシューズを、ベージュのパンツの時には薄いグレーのシューズを履くようになった。靴が軽くなったのでとても歩きやすい。そして気分も爽快になる。そのシューズだが、最近は流行の靴ベラなしで履ける形状のものを愛用している。当初は「楽ちん」なものにろくなものはないなどと思ってもいたし、年寄り臭いかなと思わないでもなかったが、本物の年寄りが年寄り臭いもないもんだと思い直し(笑)、履き心地本位でこの形のものにしたのである。いったん今風のシューズに履き替えると、もう革靴には戻れない。黒い革靴などは冠婚葬祭用に置いてあるだけだ。これから先も、ずっとこの軽くて履きやすいシューズで、過ごすことになるのだろう。

 靴が変わると今度は靴下も変わっていく(これも靴下ではなくソックスと言うべきなのか)。これまでのようなベージュやグレーの余りにも無難な靴下では、何だかおかしいと思えてくるから不思議である。靴がくだけたものになったのだから、靴下もそうならないとといった理屈なのであろうか。仕事に行くのであれば落ち着いた色の靴下にならざるを得ないが、仕事からすっかり身を洗い、自由人を気取った「好奇」心丸出しの「後期」高齢者となったので、靴下の色も制約なしの自由でいいような気になったのである。

 そこで、この際だからと靴下の色を原色系のものに変えることにした。橙や緑や茶の靴下など、これまでは履いたこともなかったものを履くようになった。当初はどうなのかなあと迷いもあったが、変身し始めるといつの間にやら平気になるらしい。周りの目などをほとんど気にしなくなるからである。まあ、私の履く靴下の色など誰も見ていないだろうという気安さもあるわけだが…。私は他人をよく観察する方だと思うが、私に関心を払うような暇人などいるはずもない。今更言うまでもなかろう。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2024/08/09

続・夏三題(1)

 

続・夏三題(2)

 

続・夏三題(3)