「働き方改革」の危うさ
以下に紹介するのは2017年6月に開かれたシンポジウムでの発言のメモである。こんなことを発言しようと思い準備して臨んだが、時間の関係で半分ほどしか語ることができなかった。それだけではなく、こちらが要領よく話すのが下手な所為も、勿論あるだろう(笑)。そこで、この機会にそのすべてを紹介してみたくなったのである。
上記のシンポジウムが開かれることになった経緯のみ、ごく簡単に紹介しておこう。出発点は、2016年5月に専修大学の経済学部主催で開かれた市民向けの公開講座である。そこでの報告をもとに、同僚だった中野英夫さんの編で『アベノミクスと日本経済の行方』(専修大学出版局、2017年)が刊行された。シンポジウムは、この本の刊行を記念して開催されたのである。少し読みやすくするために若干手を加えたが、大筋は元のままである。
昨年(2016年)の公開講座では、「『働き方改革』の深層」と題して話をさせていただいた。定年間際となって、新しい現象を追いかけることに疲れたということもあるし、「表層」ばかりを撫でてきたという反省もあったからである。しかし本に載せるとなると、スペースも限られているうえに、読者の興味を惹かなければならないこともあるので、どうしても現実の具体的なテーマに話が話が集中することになる。いろいろな話があれこれと盛り込まれているのは、その所為である。私の問題関心は、他の著者の方々と同じように、何故いつまでも日本経済がデフレから脱却できないのかというところにある。そしてまた、自分の専門分野に関わって言えば、今頃何故「働き方改革」なるものが登場してきたのか、そしてまた、その「働き方改革」がデフレからの脱却とどのような関係にあるのかというところにある。
アベノミクスの基本フレーズは、「世界で企業がもっとも活躍しやすい国」を目指すところにある。広言して憚らなかったのだから間違いない。このフレーズこそが、アベノミクスの本質を剥き出しの形で表現しているのではないか。そのために「人が動く」ことが推奨されてきた。柔軟で多様な働き方を広げることが、企業の成長に結び付くと考えられてきたからである。その意味では、アベノミクスはもともと「社会」重視(格差と貧困の解消)の主張だったわけではなく、「会社」重視(成果と生産性の追求)の主張だったということになるのだろう。
しかし、経済の土台となるべき働き方が不安定なままては、長期に渡る経済停滞を打開できないということが徐々に分かってきたのではなかろうか。ここで働き方と言っているのは、雇用や賃金や労働時間といった基本的な労働条件のことである。働き方を安定したものに(言い換えれば持続可能なものに)しない限り、持続的な成長はおぼつかないと言えるだろう。「雇用なき回復」や「賃金なき回復」、あるいは「働きすぎによる回復」では、景気回復が長続きしないからである。そこで、企業の活躍から総活躍へと転じていくことになったのではなかろうか。
ところで、ILOはこの20年近く社会戦略としての「ディーセント・ワーク」を強調している。「働きがいのある人間らしい仕事」の創出である。2008年版の『労働経済白書』でも取り上げられたテーマだが、そこではわが国におけるインディーセントな状況として、二つの問題が指摘されていた。非正社員の不安定な雇用と劣悪な処遇であり、正社員の長時間労働である。今般「働き方改革」が登場してきた深層には、こうした問題関心もきっとあったはずであるが、残念ながらともに実現しなかったように思われる。
なぜそうなったのかといえば、「働き方改革」の議論が政労使あるいは公労使という三者構成の枠組みを壊して進められたからである。労働側代表の「不在」という問題である。改革会議もその下に置かれた部会もそうである。「働き方改革」が働く人の「発言」なしに進められていくという状況が、何とも凄すぎて呆れる(笑)。この間の政治的なイッシューの流れを見ていると、安倍政権の目標はどうも復古的な国家と社会を「取り戻す」、すなわち憲法を改正するところにあるように見える。そのためには支持率を引き上げ維持しなければならないが、アベノミクスはその手段として使われているのかもしれない。政府と日銀の主導によって、企業収益が回復し株価が上昇してきたのもそれ故なのではなかろうか。新しいイメージのみを振りまくさまざまなフレーズも、然りである。
わが国において解決を迫られている労働問題はたくさんあるが、喫緊の課題となっているのは、先に紹介したインディーセントな状況をどうするのかということであろう。まずは正社員の長時間労働であるが、際立つのは、労働時間に上限のない社会の異常性である。労働基準法―三六協定―特別条項という形式を取ることによって、労働時間は青天井となり、基準法で定められた労働時間が上限であることがすっかり忘れ去られてきた。長時間労働が蔓延すると、どうしてもサービス残業(=不払い残業)に対する誘惑が大きくなる。当然のことであろう。
しかも、サービス残業が膨らんでいくと実労働時間で見た時間賃金は低下し、最低賃金の維持さえ危ういものとなる。現実には、最低賃金以下で働く正社員も珍しくはないはずである。さらに言えば、男性の長時間労働を放置したままで、女性が活躍できる社会が実現できるとはとても思われない。だから、長時間労働は過労死や過労自殺の温床となるだけではなく、目指すべき「男女共同参画社会」の根幹を蝕むものとなるのである。
そこで、三六協定の見直しによる残業時間の上限規制が検討されてきたわけであろうが、実行計画として盛り込まれたものは、原則として月45時間を維持しつつ、業務の繁忙を理由とした特例を認め、その場合は年間720時間(休日労働を含めると960時間)の枠内で、2~6カ月の平均で80時間、1か月では100時間未満、ただし、月45時間を超える残業は年間6カ月までとされた。きわめて複雑な規定であって、普通の働く人々には理解が困難である。かく言う私もよくわからない(笑)。日本の労働時間の上限は何時間なのかと問われたならば、年960時間であると言うしかなかろう。こうしたものさえ「がんじがらめの規制」だなどと称する経済評論家もいるし、そんな発言を紹介している新聞もある。サラリーマン御用達の「日本経済新聞」である。余りにもいい加減で珍妙な光景である。
さらに言えば、月80時間や月100時間という残業時間の上限規制の水準が、そもそも上限規制を加えたなどと言えるような代物かどうかも疑わしい。月80時間というのは、過労死による労災認定の際に、おおよその目安とされてきた水準だからである。過労死ラインを「法認」するものではないかとの批判を、無視するわけにはいかないであろう。この問題では、労働組合の対応も問われることになるのではないか。三六協定は労使の協定であり、使用者が一方的に押し付けたものではないからである。どのような内容の三六協定を締結すべきなのかを、労働組合はこの機会に自戒を込めて再検討すべきではなかろうか。過労死防止の観点を重視した協定にしなければならない。
もう一つは、非正社員の不安定な雇用と劣悪な処遇をめぐる問題である。この問題は「同一労働同一賃金」問題として取り上げられた。安倍総理も、国会の所信表明演説で「非正規という言葉をこの国から一掃しよう」と呼びかけていたので、何か進展がありそうな気配もあった。この問題に関する作業部会の報告は、短時間労働者や有期雇用労働者については、処遇の差が不合理とされるかどうかは、①職務内容、②職務内容や配置の変更範囲、③その他の事情(その中身は職務の成果など)によるとされた。派遣労働者については、派遣先の労働者との処遇の格差を禁じたものとは言えない内容だった。
人材活用の仕組みや職務の成果が入れてあるということは、企業の側の判断によって、どのような処遇の差でも「同一労働同一賃金」に反しないと説明できることになるのではなかろうか。あまりにも企業に配慮していると言わざるを得ず、非正社員の一掃といった方向性を持っているのかどうかも疑わしい結果である。処遇格差が大きくなればなるほど、非正社員の活用という誘惑から逃れにくくなることを忘れるべきではない。
「同一労働同一賃金」問題で強調されなければならないのは、すべての労働者が同一の制度で処遇されるべきであるとの原則である。勤続年数の評価、諸手当の支給、一時金や退職金の支給もそうである。金額に違いはあったとしても、すべての労働者が同一の制度のもとで処遇されることが重要である。諸手当の支給については新たな取り組みも現れているようなので、そうした動きを加速させ、さらに範囲を広げていくべきであろう。この問題についても労働組合の果たすべき役割は大きい。非正社員の組織化に十分に力を注いでいるとは思われないからである。同じ労働組合のメンバーではないがために、非正社員に対する身分差別をやむを得ないものとして受け止めさせているのではなかろうか。
戦後の労働運動を振り返ってみると、工職一本化や臨時工の本工化といった取り組みがあった。今で言えば、正規・非正規の処遇の一本化や非正社員の正社員化ということになるだろう。歴史に学ぶことも必要である。非正社員の処遇の改善に関しては、最低賃金の引き上げにも触れておかなければならない。「同一労働同一賃金」よりも効果は大きく、政府の取り組み如何では改善のスピードも速いだろう。春闘での賃上げだけではなく、「社会的賃上げ」が重要になっているのである。うがった見方をするならば、低過ぎる最低賃金が維持されてきたことが、この20年で非正社員を1,000万人も増大させてきたようにも考えられる。
今となってみると、どこがどう変わったのかよくわからないまま、「働き方改革」の話はもう決着が付いたような感がある。私たちの関心自体が、流行りものに流されて次から次へと移ってゆくからであろう。こうした状況は、現状によって作り出された結果でもあるが、他面では、現状を生み出した原因なのかもしれない。働き方が安定したものにならない限り、「将来に対する漠然とした不安」(芥川龍之介)や「時代閉塞の現状」(石川啄木)は解消されないし、消費が伸びることはない。そうなれば、停滞の悪循環から逃れられない状況が続くことになるであろう。