「一期一会」と言われて(下)

 「一期一会」という言葉も、使われる状況によって大分意味合いは異なるような気がする。同じような年代の友人とお互いに口に出して言っている時には、いつ会えなくなってもおかしくはない年齢になったことを、しみじみとした思いで味わっている、そんな趣がある。しかしながら、「一期一会」と心では思っていても、口にはしないこともある。もしかしたら、こちらの方が多いのかもしれない。年配の人と会っている場合もそうだし、病を抱えている人と会っている場合もそうだ。今更言うまでもないことかもしれない。

 そうした人々が自ら口にした時には、心の内で深く共感するのみである。もちろんながら逆のケースもありうる。自分が相手からそう思われている場合である。後期高齢者になったのだから、そうした事態も当然想定される。今のところは「一期一会」と思うのか、あるいは思われるのかの境目にいるような気がするが、80歳を過ぎれば、確実に思われる側に廻るはずである。今から心しておかなければなるまい。今こんなふうに書いたが、いつでもどこでも「一期一会」であるとの覚悟でいることが、大事なのではあるまいか。

 今から振り返ってみれば、大学時代の友人たちと会った時にも「一期一会」の思いは皆に共有されていたに違いない。そして、その思いはこれまでよりも強まっていたような気がした。何故そう感じたのかと言えば、最近までは不定期でたまにしか会ってはいなかったのだが、誰からともなく毎年集まってはどうかとの提案があり、それが直ぐに皆の賛同を得たからである。こんなところにも「一期一会」の思いは顔を出していたのではあるまいか。

 そもそもこの会合自体が、70歳を過ぎて直ぐに亡くなったSを偲ぶものでもあった。Sが何を考えて生きてきたのかゆっくりと聞いてみたかった気もするが、その機会は永久に失われた。大学卒業後友人の結婚式で顔を合わせたこともあったが、その後関西在住だった彼とは顔を合わせることがまったくなかったからである。最後に顔を合わせたのは、亡くなる直前に彼がゼミの同窓会に出席するために上京した時である。おそらくSは「一期一会」の思いで上京したに違いなかろう。私もまた「一期一会」の思いで会った。話は戻るが、これから先あと何回会えるか分からない、皆がそう思っていたからこそ、毎年集まることになったのであろう。

 帰宅する電車の中で、数駅の間Mと隣り合わせで座った。彼とは何度も会っているが、個人的に顔を合わせて話したことはない。生きてきた世界がまったく違うのだから、そうなっても仕方がなかろう。その彼が先に降りることになり、その際手を差し出してきた。そこで、私もしっかりと握り返した。彼は、ニヤッとしながら「力があるね」などと言って冷やかした。今でもテニスをやって身体を鍛えている彼の方が力があるに決まっているが、彼にそう言わせたのは、私の方に「一期一会」の思いが強かったからなのかもしれない。

 似たような思いがさらに強く感じられたのは、神田でもたれた現代労働問題研究会の同窓会である。何故強く感じたのかと言えば、私よりも年上の人が何人もいたからである。この同窓会が、あと何回開かれることになるのかは誰にも分からない。しかしながら、もう多くはないことは誰もが知っている、そんなふうにも思われた。前回はるばる札幌から駆け付けたYさんは、今回は欠席だった。病を得て入院中だったからである。そんななか彼は著作を纏めようとしていた。最後の執念とでも言えようか。

 彼を励まそうということで、出席者から見舞いのカンパが集められた。著書出版の一助にでもなればとの思いだった。もうしばらくしたら彼の本が送られてくることだろう。愉しみである。届いたら直ぐに読んで慰労の返事を書くつもりである。食事の後、カラオケに行く話が持ち上がり、HさんとOさんそれに私の年寄り三人で近くの店に出掛けた。何とも珍しいことである。もしかしたら、三人共に「一期一会」の思いを感じていたからなのかもしれない。ブログで紹介した「冬の星座」や「昴」を二人が歌うのを聞いた。私は、「時代遅れ」や「我が良き友よ」や「想い出の渚」や「夏の終わりのハーモニー」など、いつもながらの歌を唄った。二人の胸中には、私同様過ぎ去りし日の懐かしい思い出が広がっていたに違いなかろう。

 西日暮里での三人のOさんたちとの集まりは、「一期一会」の思いをさらに強く抱かせた。そこに住むOさんが、駅まで来てくれれば、そしてまた午前中の2時間程度であれば会えるし、是非会いたいとのことだった。そこで、埼玉のOさん、横浜のOさん、私、それに西日暮里のOさんの教え子だというTさんが顔を出したのである。横浜のOさんとだけは長い付き合いがあり、お互いによく知っている。西日暮里のOさんは、大きな手術をして大変だっただけではなくその後脊椎も悪くしたようで、二本のステッキなしでは歩行も覚束ないのだという。この会合だけは飲食はなく、近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら昔話に興じた。

 私の覚えているOさんは、誰もが知る学生運動のトップリーダーで、当時から並外れた存在感を示していた。ひ弱な私などは彼がいるだけで安心し、何とか踏ん張ることが出来た。50年以上前のあの頃の精悍さは既に失われていたが、声は昔のままである。その聞き覚えのある懐かしい声で、大学紛争当時の思い出を細部にわたって夢見るように語っていた。リーダーしか知り得ない秘話に加えて、私などがすっかり忘れてしまった話がたくさん登場した。Oさんは、そうした話を周りの人々に直接伝えたかったのであろうか。昔たいへん世話になった埼玉のOさんの回顧談も面白かった。今でも当時の資料を収集しており、出来ればそのうち著作に纏めたいとのことだった。既に鬼籍に入った何人かの活動家の話も出た。

 この二人のOさんによれば、多くの関係者がさまざまなところで、当時の思い出を語っているのだという。今から振り返れば、あまりにも凝縮した時間であり、凝縮したエネルギーであり、凝縮した運動だったから、紛争の中心にいればいるほど、忘れがたい思い出となって胸底に残っているに違いなかろう。西日暮里の喫茶店に流れていたのは、青春の最後の煌めきや残光だったのかもしれない。もはやあの頃に戻ることは出来ない。そこにあるのは懐かしさだけである。

 この日私は西日暮里から武蔵小杉に出て、夕刻にKさんと会った。夜遅くに帰宅して、西日暮里のOさんから留守番電話があったことを知った。再生したら、「今日はわざわざ遠くから来てくれてありがとう。愉しかったよ。お元気で」との吹き込みがあった。私の気のせいかもしれないが、最後の方は僅かに声が潤んでいたようにも思われた。藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』には、残日という言葉にまつわって「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」だとの説明がある。その残日を、われわれはいつの間にか通り過ぎてしまったのであろう。あの潤みを帯びた声には、その寂しさが滲んでいたのかもしれない。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2024/07/26

緑の海へ(1)

 

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