「一期一会」と言われて(上)
2回に分けて散策に出掛けた話を書いてみたが、今度は知り合いと顔を合わせた話である。この5月から数えてみると、じつに多種多様な人々と会う機会があった。丸の内で大学時代の友人たちと会い、神田で開かれた現代労働問題研究会の同窓会に顔を出し、渋谷で元同僚のAさんと雑談を交わし、海老名で研究者仲間(私は研究者を廃業しているので、もはや研究者ではないのだが)と語らい、西日暮里で大学紛争時の知り合いと思い出話をし、東京駅の近くで二部のゼミの卒業たちと会った。今月の末には、恒例となっている元の職場の同僚たちとの会合もあるし、9月には一部のゼミの卒業生たちとも会うことになっている。これはいわゆるOB・OG会というものなのだが、私としては喜寿となる今年で出席を最後にするつもりだ。
こんなふうに書き出してみると、何だかしょっちゅう外で飲み食いしている、いかにも脳天気な後期高齢者のじいさんのようにように思われるかもしれない。まあ当たらずとも遠からずといったところではあるのだが…(笑)。仕事部屋に籠もりパソコンに向かってブログ三昧の暮らしを続けていると、老後の道楽だからそれはそれで楽しいとは言うものの、目はショボショボ、顔はテカテカ、指はベタベタ、肩はコキコキ、足はヨレヨレ、腰はガクガク、腹はブクブク、脳はスカスカ、頭はツルツルしてくるので(つい調子づいて止まらなくなってしまった-笑)、たまには気分転換に出掛けたくなる。
そこで、カメラをバッグに放り込んで外に出てみたり、週に2度ほど水風呂代わりに近くのプールに顔を出したりしている。真面目に泳いでいるわけでもないから、浸かると言うのが正しかろう。身体を真っ直ぐに伸ばして水に浮かんでいるだけで、すこぶる気持ちがいい。いつぞやは、監視員の若い女性に「大丈夫ですか」と声を掛けられた。年寄りが長い間うつ伏せの状態で浮かんでいたので、心配になったのであろう。心配されて当然かもしれない。
しかしながら、もっとも愉しい気分転換は何かと問われれば、やはり親しい友人と飲み食いしながら雑談に耽ることだと答えることになるだろう。いわゆる飲み会の類いである。これ以上の気分転換は他にはない。一仕事終えた後であれば愉しさはさらに膨らむ。だからなのか、飲み会の日程に合わせて仕事を片付けようと頑張ったりもする。そんなわけで、飲み会に誘われれば特段の不都合がない限り顔を出すようにしているし、それどころか、ごくたまにではあるが自分の方から誘うこともある。
こんなふうにして気儘に暮らしていると、暇と退屈にうんざりすることもなく老後の「自由時間」は過ぎていく。別に共産主義の社会にならなくとも、年寄りは「真の富」である「自由に処分できる時間」を存分に享受できるということか。こんなことを書いていると、充実した老後を自慢しているかのように勘違いされる方もいるかもしれないが、この私はそんな感覚とはまるで無縁である。年寄りの自慢話など馬鹿馬鹿しいにも程があると言うもので、何とも聞くに堪えない。一人で愉しんでいればいいのである。
この間多くの人と会ったが、この私はしばらく前まで上述のような理由で会っているものだとばかり思い込んでいた。しかしながら、どうもそれだけではないようにも思われてきた。久方ぶりに渋谷で会ったAさんが、「このところ知り合いで亡くなる人がポツポツと出てきているので、一期一会なんだなあとつくづく感じますよ」などと語るのを聞いたからである。いつ会えなくなるか分からないから、会える時には会っておくようにしていると言うのである。もしかすると、年下の彼からすればこの私などもそんな人間の一人として見えているのかもしれない(笑)。
彼の語るところを聞いていて、「一期一会」という言葉に妙に感ずるものがあった。気分転換のためとは言ったものの、目を凝らしてみれば、胸底には「一期一会」の思いが沈殿しているのかもしれない、ふとそんなことを思ったのである。今更とは思うが、「一期一会」と書いて「いちごいちえ」と読む。その意味が、一生に一度限りの機会だということもよく知られているのではあるまいか。 辞書には、「一期」とは一生、「一会」とは一度の出会いのことであり、 何度も会う機会がある人に対しても、常に「これが最後かもしれない」と考え、その時その時を大切にしなければならないと諭す言葉であると記されていた。
その先をもう少し調べてみると、千利休の弟子である山上宗二(やまのうえ・そうじ)が、『山上宗二記』の中で「一期に一度の会」という一文を残しているとのこと。 さらには、井伊直弼が自身の著書『茶湯一会集』の巻頭に「一期一会」という言葉を記し、こうした考えを世に広めたようだ。中国由来の四文字熟語かと思っていたが、もともとは茶道由来だったのである。これまでまったく知らなかった。山上宗二は随分と数奇な運命を辿ったようで、途中は省くが最期は秀吉によって耳と鼻を削がれた上で打ち首にあっている。『山上宗二記』は茶の湯に関する基本資料だとのこと。
そんなことを知ってみると、「一期一会」という言葉には、茶の湯に生きた茶人の鋭く研ぎ澄まされた構えが感じられる。真剣勝負で刃を交わしているとでも言えばいいのか。物腰はあくまでも柔らか、発する声も少なく静かなのに、怖さを感じる。そのぐらい人生というものをある種の厳しさをもって見つめているからではあるまいか。功成り名を遂げた成金趣味の太閤秀吉には、そうした茶人の存在が何とも疎ましく感じられたに違いなかろう。茶器は手に入れることが出来ても、茶人を権力に服従させることができないからである。人間のレベルが違っている。
俗人の私には茶人の厳しさを体得することなど到底無理であろうが、そうではあっても、後期高齢者になると例え片鱗に過ぎないとはいえ「一期一会」の思いぐらいは感じ取れるようになってくる。老い先が短くなっていけば、否が応でも「一期一会」というものを意識せざるをえないからである。そのことを軽んずるつもりはないのだが、この私としては、できうれば茶人の生きる構えの方をこそ見習いたいような気もする。あまりにも傍若無人で軽佻浮薄な現代の日本社会からすっかり失われてしまったもの、そこに深い哀惜の念を感ずるからである。
PHOTO ALBUM「裸木」(2024/07/19)
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