「ものを読む」ということ(四)
「『ものを読む』ということ」と題して、これまで3回に渡って投稿してきたので、この辺りで終えるつもりでいたのだが、本が送られてくるときは立て続けに送られてくるもので(笑)、最近佐藤文夫さんという方が書かれた『日本賭博史 概論』という本をいただいた。著者の佐藤さんという方は、詩人会議の会員で現在は顧問であるということだが、私は何の面識もない。
どのような経緯でこの本が私の手元に届いたのかをまず記しておこう。地元の社会運動に顔を出すようになって、私は詩人会議の事務局長をされている洲史(しま・ふみひと)さんと知り合いになった。その彼が、「横浜でカジノ誘致に抗議している人たちに贈呈して欲しい」と著者の佐藤さんから依頼されたらしい。そこで私もお相伴にあずかったというわけである。
見ず知らずの人々に自分の著書を贈呈するとは、何とも見上げた志しであるとは思ったが、もしもそれだけであれば読んでブログに投稿することもなかったであろう。手にして読んでみたくなったのは、著書のタイトルが『日本賭博史 概論』(詩人会議出版、2020年)だったからである。暇人だからなのか、一見して興味が沸いたのである(笑)。
横浜のカジノ問題に首を突っ込んでから、必要があって関連の著作を何冊かまとめて読んでみた。それぞれに役に立つ情報がたくさん盛り込まれており、それはそれで私のような門外漢には役に立ったのではあるが、すぐに役に立つ本というものは、しばらくすればすぐに役に立たなくなる本でもある。カジノ問題を巡る状況が急速に進展していくと、すぐに古くなっていく。仕方の無い成り行きではある。
こんなふうに偉そうに書いているが、そう書けるのは、実は自分も日本の労働問題の現状分析のようなことを仕事にしてきたので、上述のようなことを身をもって体験してきたからである。書いたものがしばらく経つと古くなり、役に立たなくなるのである。逆に言えば、時代の変化に合わせて書くことが次々に生まれてくるので、仕事は切れ目無く続いているように思えるのだが、書いたものがどの一つも残らないような感覚に襲われるのである。いささか怖い話ではあるが…。
そんなわけなので、現状を分析し紹介した本は一度読めばそれで用済みとなる。そして、しばらくすれば本棚から消え去ることになる。何時までも取っておきたいとは思わないし、繰り返し読もうとも思わないからである。それに対して、『日本賭博史 概論』なら、もしかしたら違った角度からカジノ問題に接近できるかもしれないし、残しておきたい本になるかもしれない、そんなふうに勝手に思ったのである。
著者の佐藤さんは1935年生まれだということだから、現在は80代の半ばということになる。もうかなり高齢の方だが、そんな方が目の前の社会問題に旺盛な関心を示され、こうした著作を纏めるとは驚きである。同じような驚きは、映画『時の行路』を撮った監督の神山征二郎さんにも感じた。元気だから社会問題に関心を示しておられるのか、あるいはその逆なのか、今の私にはすぐには判断が付きかねるのだが…。
ただ、詩人でもある方が書かれているということもあるのか、あるいはまた、雑誌の連載記事を状況に合わせて急遽取り纏めたという事情もあるのか、さらには、運動に寄与すべく歴史と現状の二股を掛けた薄い冊子にせざるをえなかったということもあるのか、賭博史の概論と銘打つにふさわしい叙述となっているとは言い難いような気もした。その点でいささか読みにくさや読み足りなさを感じたのも事実である(相変わらず生意気であるー笑)。
そこはいささか残念であったのだが、一読してみて多くの新しい知見に触れることが出来た。『徒然草』が登場したり、硬骨漢のジャーナリストであり、また希代の「変人」「奇人」でもあった宮武外骨の『賭博史』が紹介されていたりもしたからである。賭博には連綿とした長い歴史があり、何だか人間の「業」のようなものさえも感じないではなかった。
話のついでに、『徒然草』についてだけ一言触れておくと、110段には、「双六の上手といひし人に、その手立を問ひ侍りしかば、『勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし』と言ふ。道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、またしかなり」とある。私は、佐藤さんとは違って、なかなかに興味深い指摘だと思った。私の信条としている「焦らず、慌てず、諦めず」に通じるものがあるようにも思われるからである。
最初は室内遊戯として始まった双六だが、中世には賭博としてかなり流行ったらしい。先の110段の指摘だけでは、賭博を評価していると勘違いされると思ったか、吉田兼好は次の111段では次のように弁明らしきことを述べている。「『囲碁・双六好みて明かし暮らす人は、四重・五逆にもまされる悪事とぞ思ふ』」と、或ひじりの申しし事、耳に止まりて、いみじく覚え侍り」。賭博をとんでもない悪行だと述べた高德の僧に、強い共感を示しているのである。著者の佐藤さんは、ここに共鳴しておられた。
ただでさえギャンブル大国のわが国は、「四重、五逆」の人、今で言えばギャンブル依存症の人々を数多く生み出してきたと思うが、そこにさらにカジノまで加えようというのであるから驚く。しかも、横浜のシンボルでもある山下公園にである。市の将来に大きな影響を及ぼしかねない計画にも拘わらず、一度も市民の意向を確かめもしないままに、誘致を決めるというのであるから、もはや論外の暴挙と言うしかあるまい。
林市長は「おもてなし」の人として登場したのだが、横浜市民にはとんでもないものが「おもてなし」されたわけである(「苦労人」などと持ち上げていると、国民の方が苦労させられることになるのと同じであるー笑)。カジノ誘致の是非は住民投票で決めるべきだという主張に20万筆もの賛同署名が寄せられたのも、当然至極の成り行きであったろう。しかもそうした運動が、政党や大衆団体や個人が対等で平等な関係で手を繋ぎ合いながら取り組まれたところにも、私としては注目すべき大きな変化を感じた。
uniteがなければchangeはない。言い換えれば、手を繋ぎ合わなければ変革は不可能なのである。私たちは、今回の運動を通じてたんなる住民から市民に脱皮しつつあるのであり、「自治、分権、参加」という民主主義の原型を探り当てつつあるのかもしれない。『日本賭博史 概論』を読みながら、ふとそんな思いも兆したのである。著者は最後の一行にこう書く。「古代から近世にいたるまで、賭博を善しとする政権はなかった」と。
佐藤さんも紹介されているように、賭博を巡っては、時の権力者と民衆との間で長きにわたる攻防が繰り広げられてきた。権力の網の目をかいくぐって、さまざまな賭博が生まれてきたからである。では、今回の横浜の場合はどうか。合法化された賭博を更に広げようとする権力者と、それに異議を唱える現代の民衆=市民との攻防戦である。両者の関係はすっかり逆転している。林市長も菅首相も、カジノを誘致すれば市民が喜ぶとでも思ったのか。そうしたものを愚民政策というのである。情けないというしかない。