「ものを書く」ということ(三)
さまざまな人の似顔絵を描くことでよく知られた山藤章二さんという方がおられる。かなりデフォルメされた顔なのだが、その特徴をあまりによく捉えているので、一度見たら忘れられない作品ばかりである。彼の作品を見ていると、表現するということは、ただただ対象を写し取ることではないことがよくわかる。やはり、目のつけどころが大事だというなのだろう。それがなければ、ありきたりの平板な表現に終わらざるをえない。ものを書く場合も同じような気がする。
ところでこの山藤さんは、なかなかの文章家でもある。他人が書く著作に似顔絵のイラストを施しているだけでは物足りなくなり、自分でも文章を書くようになったということなのであろうか。その辺りの事情についてはよく知らない。彼の文章は落語の小噺のようであり、じつに面白い。そこには、似顔絵にも似ていささか毒の混じった笑いも含まれている。こうした笑いを毒笑とでも言うのであろうか。
私の手元には彼の本が二冊ある。一冊は『まあ、そこへお坐り』(2003年)であり、もう一冊は『老いては自分に従え』(2015年)である。ともに岩波書店から刊行されている。あの岩波書店と山藤さんとの取り合わせが意外で、最近は岩波も面白い本を出すんだなあと感心した記憶がある。しかし、そんなことに感心したのは私が世間を知らないからで、本の末尾にある著者紹介欄を見ると、山藤さんは同じ岩波書店から『自分史ときどき昭和史』とか『論よりダンゴ』などの著作も刊行しているのである。両者の縁はかなり深い(笑)。もしかすると、岩波書店の編集者に山藤ファンがいるのかもしれない。
今回この雑文を投稿するにあたって、何の気なしに先の著作を広げていて知ったのであるが、岩波書店は2003年に全3巻からなる『落語の世界』を刊行していた。へえーと驚いた。当時買えば一冊3,000円だから揃いで9,000円となるので、なかなかの値段であった。近頃は滅多に本は買わないことにしているが、どういう訳かちょっと興味が沸いて、ネットで手に入れてみた。古本になるとかなり安くなる。どうでもいいことだが、奇妙な繋がりが生まれるものである(笑)。
そこで本題だが、ひとはものを書けば誰かに読んでもらいたくなる。今更言わずもがなの当然の心の動きであろう。人情というものである。できることなら本屋から出版してもらいたいのだが、素人が書いたものを喜んで出す出版社など何処にもない。そうなると、自分でお金を出して本屋から本を出してもらわなければならない。私もまた、シリーズ「裸木」と題した冊子を毎年出している。出版社から出してもらっているわけではないので、費用は大分安く済んでいるが、その行為自体は同じような性格のものであろう。
では、そこに潜む落とし穴とはどんなものであろうか。山藤さんは、「自費出版の話」と題して以下のようなエッセー(エッセーと言うよりも、やはり小噺という表現の方がぴったりするのだが)を書いている。面白おかしく書いておられるが、毒はたっぷりと込められている(笑)。「『ものを書く』」ということ」で(一)(二)と投稿してきたが、いずれも他人の文章を勝手に拝借してきた。どうせなら「毒を食らわば皿まで」ということで、この(三)でも山藤さんの文章を使わせてもらうことにした。以下がその全文である。
「新聞広告は世相を映す鏡である」とは、広告業界でよく言われる言葉だ。たしかに、景気好調の時代の新聞は一頁全面広告が研を競っていた。有力新聞になると売り手市場で、小さな広告なんか相手にしないという雰囲気があった。それが、景気が悪くなるや、とたんに紙面は地味になる。おかげで小さな広告主が、小さな広告をうてるようになった。活字びっしりの紙面で、思いがけぬ所に「わさび漬」とか、「佃煮」の小さな広告を見つけるのは、なかなかオツな味わいがあっていいものだ。
同様に、かつて景気のいい頃は見かけなくて、最近よく見かける広告がある。「あなたも自費出版してみませんか」とか、「自分史を書いて本にしませんかといった」広告だ。よく見ると、限られた一社や二社ではなく、有名出版社までが特別にそれ専門のセクションを設けているのである。普通の人が本を出す。これが静かに広がっているのだなと、広告の量で知った。
国には歴史、会社には社史があるように、あなたにも自分史がある。それをまとめて一冊の本にしませんか。専門家がお手伝いします。……これはなかなかに誘惑的な言葉だ。俺は人並み以上に苦労して来たんだ、という思いは誰にでもある。社会的には大して出世しなかったが精一杯やってきた。俺でなきゃ出来ない仕事も見事にこなして、まわりから拍手喝采されたこともある。しかしいままで、女房にも子供たちにも言わなかった。
苦手なんだよ。俺たち世代の男は、仕事上の自慢や愚痴を家族に言うのは 面と向かって言うのは照れるから、本に書く。俺という人間がいた。俺という歴史がある。忘れないうちになるべく細かく書いておく。読んで、たいして面白くもないだろうが、一カ所でも二ヵ所でも、お前たちの心に残るものを見つけてくれれば、それで十分だ……。
私はこの「自費出版・自分史ブーム」には大賛成だ。親が子供に遺すものとしては、文化的にも精神的にも大いに有意義だからだ。広告によれば、百万円で二百冊出来るという。家族だけでなく知人にも配りたくなるだろう。しかし他人に読んで貰うには多少の工夫が要る。僭越だがヒントを申しあげる。
一ッ、自分をつき放して客観的に書くこと。著者と文章との距離がユーモアを生む。
一ッ、挫折は大袈裟でもいいが、自慢は極力控え目に書くこと。
一ッ、本はできるだけ薄く、軽くすること。
そうそう肝心な事。私に送って来ないこと。いままで送られて来た本で読んだのはありません。
以上が山藤さんの書かれた物だが、何ともきついですねえ、そして苦笑しますねえ、最後の一行に(笑)。しばらく前にゼミの卒業生たちと会った時に、一人の卒業生が次のようなことを言った。親戚に俳句をやる人がいて、時折句集を周りに送ってくるのだけれど、みんないささか迷惑してるんですよ、と。さもあらんと思った。そして、私の場合も似たようなものだろうとも思った(笑)。しかしそれにしても、冊子を贈呈している私を前にこんな話をする卒業生は、途方もなく無神経な人物なのか、はたまたとんでもなく勇気ある立派な人物なのか(笑)。
山藤さんの書かれた文章を読んでしまうと、自分の作った冊子を他人に送りにくくなって困る!そうぼやきながら、傍迷惑も顧みずに贈呈し続けるしかなかろう。どうせ雑文を書くなら、山藤さんのような肩の力の抜けた、軽妙洒脱で、たまに毒笑がまぶされた文章を書いてみたいものである。無理ではあろうが…(笑)。