「こどもの国」の戦争遺跡を訪ねて

 

 9月の年金者組合のウオーキングは、20日の「敬老の日」に行われた。出掛けたのは「こどもの国」であり、そこに残されている戦争遺跡を見に行ったのである。当日は晴天に恵まれ、休日とあって大勢の親子連れで賑わっていた。そんなところに、昔々に子供であった一団が集まったのであるから(笑)、周りからは異色の存在に見えたことだろう。「敬老の日」ということもあって65歳以上は入園無料だったので、入園券を買うために長い列に並ばなくてもすんだ。

 そう言えば、「敬老の日」にちなんで、私の住む団地でも70歳以上の住民に記念品が贈られた。70歳を過ぎた方々のなかには、まだ老人扱いされたくないと思っておられる方もきっといることだろう。私はと言えば、敬われるべき老人になっているなどとはまったく思わないが、老人扱いされることに違和感はない。鴎外の短編のタイトルではないが、「じいさんばあさん」で何の差し支えもない。自分はすっかり老人であると自覚している(あるいは、自覚しようとしている)からであろうか。たまに電車で席を譲られることがあるが、そうした時は勿論喜んで座らせてもらっている。何ともありがたいことではないか(笑)。

 私は、バスで市が尾駅に向かい、田園都市線の市が尾駅から長津田に行き、そこから、途中に一駅しかないこどもの国線に乗り換えて、「子供の国」に到着した。時刻表通りの運行だったので、余裕をもって待ち合わせの時間に間に合った。しかしながら、バスで来られた方々は、「こどもの国」に向かうマイカーの渋滞の列に巻き込まれて、なかなか到着できなかった。その間木陰に腰を下ろして待ったのだが、あまり苛々することもなかった。何ほどの用事があるわけではない、のんびり待てばいいと思っていたからである。「敬老」されるからには、そのぐらいの心構えが必要であろう(笑)。

 もらったチラシには、この「こどもの国」が、かっては「日本最大の弾薬製造工場」であった 陸軍の「田奈弾薬庫」だったこと、「 現上皇ご夫妻のご成婚に際し寄せられたお祝い金の使途を 『子供たちの為に』と希望され」たこともあって、「第二次世界大戦中、そして 朝鮮戦争時米軍の弾薬庫として使われた跡地を整備し、1965年5月5日に「こどもの国」として開園したこと、園内には 「平和の碑」や「弾薬庫跡」や「無名戦士の像」等があることが記されていた。「こどもの国」がそうした歴史を持つことなど、私は何一つ知らなかった。

 まず最初に向かったのは「平和の碑」である。園内に入って右手に廻ると道路があり、その向かい側に標識が見えた。階段を上った丘の上にその碑はあった。ひっそりとした木立の中にあるので、ほとんどの来場者は気が付かないことだろう。私も「こどもの国」には何度か来ているが、まったく気付かなかった。当日われわれの案内人を買って出てくれたのは、「年金者文化展」でお会いした斉藤淑子さんである。彼女は、「こどもの国」の歴史とそこに残された戦争遺跡に関しても調べており、資料集まで作成しておられる。

 その資料集によると、田奈の森に弾薬庫ができるにあたっては多くの労力を要したようで、作業員の9割は朝鮮人で他に東北地方からの出稼ぎの人々もいたという。この弾薬庫では、軍人や徴用工、学徒動員の女学生、朝鮮人など3,000人ほどが働いていたらしい。「平和の碑」は、弾薬を製造したこの地を平和の発信地にしたいと願って、 終戦50年となる1996年の3月に、ここで働いていた元女学生の方々の呼びかけで建立されたものである。

 この碑のある場所は、「白百合の丘」と名付けられている。「平和を祈る」と題された碑には次のような文が刻まれていた。「 戦争のない世界を願って私たちは、国の命令で勉強をやめ、 この工場で弾丸を作る作業につきま した。その砲弾が地球上のだれかを傷つけたのではないかと思うと、とても恐ろしい気持ちです。戦争を再び起こしてはなりません。この想いをこめて、平和を祈る碑を建てました。 平和な世界のなかで、こどもたちがの びのびと育ちますように 神奈川県高等女学校」。この碑を建立した人々の心映えの美しさを感じた。

 そのあと園内に何箇所もある弾薬庫の跡地に向かった。高台から園内を見渡すと、あまりにも大きな青空が広がり、赤いカンナの群生も目に鮮やかで素晴らしい景観である。伸び伸びと育った子供たちの姿も見え、親子の幸せそうなさんざめきも遠くから聞こえてくる。弾薬庫はもともと33箇所あったらしいが、現在確認できるのは18箇所だとのことである。園内を巡ると戦争の遺跡があちこちにある。その多さにあらためて驚いた。内部を覗いてみたかったが、扉は施錠されており暗くて何も見えなかった。封印された過去のようにも思われた。「無名戦士の像」は、ボーイスカウトに関連した美談を紹介したもので、私の期待していたものとは違った。

 今回のウオーキングは、戦争遺跡の見学だったこともあって、それほど疲れることもなかったが、それでも外に出掛ければ1万歩近くは歩くことになる。昼には解散しその後は自由行動となったので、私は園内を一人でのんびりと散策し、帰り際に再び入口近くの高台に立ってみた。まさに抜けるような青空である。こんな大きな青空を蒼天と言うのであろう。視線を上空からゆっくりと下げていくと、一色のように思われていたこの青空が、微妙に色合いを変えていくのがよく分かった。老いのゆとりが生み出した新しい発見である(笑)。

 たまに小僧や小娘たちが周りをうろちょろすることもあるからなのか、私もまた、柄にもなく「平和な世界のなかで、こどもたちがの びのびと育ちますように」と願った。「敬老の日」には、子供が小さかった頃の昔に返ってみるのも悪くはなかろう。「老」を意識するということは、それと対になって「若」を思い出すことでもあるからである。今では、幼かった頃の「素直さ」などすっかり失ってしまった私だが、そんなものさえも呼び起こすかのような、「敬老の日」の何とも大きな青空だった。

 

 

 

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