ある映画を観て(二)
当初は1回ですべて書き終えるつもりだったのだが、またまた大分長くなってしまった。いつもの悪い癖である(笑)。仕方がないので3回に分けることにした。映画『ひまわり』には、広大なひまわり畑のシーンが最初と最後のタイトルバックを含めて三度現れる。撮影地はウクライナ。若い頃にすっかり見逃していたのは、中盤に現れるひまわり畑と墓地のシーンである。この映画のタイトルにもなったきわめて大事なシーンであり、決して見逃してはならぬはずのシーンである。
なのに、ソフィア・ローレンの美貌に心を奪われていたためなのか(笑)、あるいはまた戦争によって引き裂かれた悲恋の物語にすっかり酔っていた(あるいは逆に、酔うのを嫌っていた)ためなのか、50年後二度目に観るまでまったく忘れていた。この映画に、何故に「ひまわり」というタイトルが付けられたのかを少しでも考えたならば、誰しも分かって当然なはずだったが、そこに気付かなかったのである。迂闊と言えばあまりにも迂闊である。
若すぎた所為でもあるだろうが、もしかしたら、当時はかなり雑駁な生き方に流されていたからなのかもしれない。車窓から映し出される一面のひまわり畑。アントニオを探すジョバンナと彼女に同行する役人、そしてその二人を案内するウクライナの女性の農夫が、ひまわり畑の中をゆっくりと歩いていく。そこを抜け出たところで、ジョバンナに農夫が告げる、ひまわり畑の下(そして木の下や畑)には、「イタリア兵とロシア人の捕虜が埋まっている」のだと。
聞けば、彼らだけではなく、農夫も年寄りも子供も埋まっているのだった。死者の上に咲き誇っている数え切れないほどのひまわりは、そうしたことを何も知らぬかのように、風に揺れて美しく咲いている。戦争の悲惨をひまわりに託した、何とも見事な演出である。あまりにも陳腐な表現だが、圧巻の光景とでも言うべきであろうか。
小高い丘の一面には、見渡せないほど多くの墓標が立てられている。ジョバンナに同行したロシアの役人は、墓地に建てられた記念碑の前で語る。この地で戦死したイタリアの兵士を悼んだロシアの詩人スエトロフの作品が、ここに刻まれているのだと。
私はスエトロフという詩人も彼の作品も何一つ知らないのだが、その詩は何時までも心に響き何故か忘れ難い。言ってみれば、侵略者側の兵士であったはずの外国の若者の死を、このような優しく美しく静かな詩で悼むとは…。先の記念碑に刻まれた墓碑銘は、次のようなものだった。
ナポリの息子よ なぜ君はロシアの野へ来たのか 故郷の湾に飽きたのか ラホストークで君は ベスビオの山を想っていた
今であれば、侵略者はロシアであり、「ロシアの息子よ なぜ君はウクライナの野へ来たのか」ということになるのであろうか。こうした詩が刻まれた記念碑が建てられ、それによって死者が悼まれることになったが故に、イタリアの兵士たちも静かな永久の眠りにつくことができたのではあるまいか。そしてまた、死者の上に咲いたひまわりは平和の花へと転じることができたのではあるまいか。詩人の力の偉大さである。
翻って、わが日本にはそんな記念碑が存在するのであろうか。「戦死やあわれ 兵隊の死ぬるやあわれ」で始まる竹内浩三の詩「骨のうたう」などが、兵士が眠る墓地に記念碑として刻まれたりしているのであろうか。あちこちにあるのは、「忠魂碑」や「英霊碑」ばかりのような気がしないでもない。
最近手にした大下毅の『独ソ戦ー絶滅戦争の惨禍ー』(岩波新書、2019年)によると、第二次世界大戦でソ連の犠牲者は2,700万人、ドイツは800万人にも上るのだという。現代の狂気であり野蛮でもある殺戮と絶滅の戦争がもたらした、途方もない死者の数である。そこには映画『ひまわり』に描き出されたような悲劇が、数限りなく生まれたことであろう。
陽光に煌めき風に揺れる一面のひまわりは、sunflowerの名の通り平和を象徴しているかのように大輪の花を咲かせている。しかしながら、その平和は膨大な犠牲の上に生まれたものであり、悲惨に満ち満ちた戦争というものを、深く静かに告発する花のようでもある。そしてこの花は、今日ロシアのウクライナ侵略に抗議する世界の反戦運動のシンボルとなった。
ところで、わが国では今日いったいどんな事態が生じているのであろうか。ロシアのウクライナ侵略という世界の「危機」に乗ずるかのように「核のシェアリングを議論せよ」とか「憲法で国は守れない」といったリアリストぶった勇ましい言論ばかりが目に付くようになった。世界に広がる核軍縮の動きや反戦運動の高揚などまるで眼中にないかのようである。
こうした似非リアリストの議論の先にあるのは、「力の論理」の横行であり、果てしのない軍拡競争であり、泥沼のような従属国家化であろう。落ち着きを取り戻し、世界に広がる反戦運動と連帯するためにも、イタリア・ネオリアリズモの生み出した名作『ひまわり』を、あらためてじっくりと鑑賞すべきなのではあるまいか。